時代を超え、挑戦し続ける。
三木組の創業は明治42年まで遡ります。
日本が近代国家として発展していく中、激動の大正・昭和を経て、平成へ。
現代に至るその歩みは、決して平坦な道のりではありませんでした。
しかし、常にお客様と歩みを共にし、ときに苦境を乗り越えてきたことは三木組にとって大きな誇りです。
これから先の100年も三木組は堅実に一歩一歩、未来を切り開くのです。
1909〜1940年代
すべては三木家再興への
誓いから始まる
創業者である三木 賢太郎は1886年(明治19年)11月1日、代々宮大工の家系に生まれました。当時、家業は衰退の兆しを見せ、野良仕事で生計を立てている状況でした。そんな中、賢太郎は家業を手伝いながら「新生・三木家」の再興を誓います。この年、1909年(明治42年)が三木組創立の年です。
西野田職工学校夜間部で町大工としての技能を学び、大阪電気製造株式会社での経験を重ねた後、1918年(大正7年)に、賢太郎はついに三木組として独立。ここから、現在に続く三木組の歴史が始まりました。
1886年(明治19年) | 創業者 三木 賢太郎が、父・貞次と母・マツの間に誕生 |
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1909年(明治42年) |
賢太郎が三木組を創業 (三木組創業当時) |
1916年(大正5年) | 十三へ移住した賢太郎が、大阪電気製造株式会社の専属建築業者として従事 |
1918年(大正7年) | 賢太郎が「三木組」として独立 |
安定・成長・危機を経験した
激動の時代
第一次世界大戦後の不況の中、三木組は現在も取引が続く大阪変圧器株式会社(現:ダイヘン)の傘下に入り、工場の補修や製品梱包など幅広い業務を担当することで経営の安定を図ります。1924年(大正13年)には同社の新事務所建設という大阪初の大規模工事を手掛け、完成時には三木組の社員が神輿を担いで同事務所の支配人宅まで練り歩くほどの熱狂だったと伝えられています。
1934年(昭和9年)に十三に本拠を構え、1944年(昭和19年)には三木 亮が代表者に就任。大阪変圧器が軍需工場に指定されていたことから、三木組も電力使用の特典を得て、太平洋戦争下でも事業を継続できました。しかし、終戦と同時に大阪変圧器の工場生産が停止。三木組も一時的に仕事を失い、まさに存亡の危機を迎えることになります。
1924年(大正13年) | 大阪変圧器の新事務所を建設 (大阪初の大規模工事) |
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1934年(昭和9年) | 十三に本拠を構える |
1941年(昭和16年) | 太平洋戦争勃発 軍需工場に指定された大阪変圧器のもとで、事業を継続する |
1944年(昭和19年) | 三木 亮 代表就任 |
1945年(昭和20年) | 太平洋戦争終戦 大阪変圧器の工場生産停止により、一時的な事業停滞へ |
復興と発展、飛躍 1950〜1960年代
戦後の復興とともに、
総合建設業者への道へ
戦後3年間の苦境を経て、1948年(昭和23年)、神崎製紙株式会社の指定業者となり再出発を果たします。朝鮮戦争による好景気や台風被害の復旧需要も重なり、経営は次第に安定。1953年(昭和28年)には、人員の拡充とともに、株式会社として三木組を設立。工場建設や社員寄宿舎の建設を相次いで手掛け、総合建設業者としての基盤を確立していきました。
1959年(昭和34年)以降は、徳島進出や建物の高層化への対応など、さらなる飛躍の時代を迎えていきます。
1952年(昭和27年) | 尼崎営業所開設 |
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1953年(昭和28年) |
大阪市東淀川区元今里南通(現:淀川区田川)に株式会社三木組設立
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1956年(昭和31年) | 建設業 建設大臣登録 |
1957年(昭和32年) | 十三工作所開設 |
1958年(昭和33年) | 大阪建設業協会入会 |
1959年(昭和34年) | 徳島営業所開設 |
1960年(昭和35年) | 富士電波工業の新社屋と工場を設計・施工 (初の新規社屋・工場の企画・設計) |
1961年(昭和36年) | 大阪商工会議所入会 |
1963年(昭和38年) | 一級建築士事務所設立 |
1964年(昭和39年) | 建築業労働災害防止協会入会 |
1969年(昭和44年) |
社内報「ミキニュース」創刊号発行 |
新たな挑戦の時代 1970〜1980年代
世代を超え、確固たる基盤を築く
1965年(昭和40年)以降、小学校舎を中心とした官公庁建築を手掛け、安定した受注基盤を築いていきます。1974年(昭和49年)には創設者である三木 賢太郎が逝去し、同年、三木 哲彦が取締役に就任。三木組にとって一つの節目となりました。
翌年より、川鉄商事株式会社の分譲マンション「ロイヤルシリーズ」を受注。中でも、1977年(昭和52年)に受注した千里山ロイヤルマンションは「第一回大阪都市景観建築賞 大阪府知事賞」を受賞する快挙となりました。
景気低迷の兆しが現れた昭和50年代、土地買収から携わるデベロッパー的な役割や、官公庁工事に注力。さらに、受注産業という従来の枠を超えて「工事を作り出す」開発営業への転換を図り、安全管理体制も大幅に強化していきます。そうして、三木組が創業80周年を迎える年に、長い昭和の時代が幕を下ろしたのでした。
1970年(昭和45年) | 三木 哲彦 営業部着任 |
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1974年(昭和49年) | 創設者 三木 賢太郎逝去 三木 哲彦 取締役就任 |
1975年(昭和50年) | 川鉄商事「ロイヤルシリーズ」受注開始 |
1976年(昭和51年) | 三木商事株式会社設立 本社社屋完成(現社屋) |
1982年(昭和57年) |
千里山ロイヤルマンションが「第一回大阪都市景観建築賞 大阪府知事賞」を受賞 |
1989年(平成元年) | 淀川工業会入会 |
技術と信頼の結実 1980〜2010年代
世紀を越えて、
誠実な挑戦が未来へ続く
平成の時代を迎え、重点目標として取り組んでいた開発営業は徐々に実を結びはじめ、継続のお客様へと発展するケースも見られるようになります。
1990年(平成2年)には、斜面地に共同住宅を放射状に配置した「ロイヤルヒルズ箕面」を完成させ、その技術力の高さを示しました。さらに翌年、「ロイヤルヒルズ三田」を受注。受注金額20億5,000万円は、三木組の長い歴史の中でも、単一施工の中では最高金額となっています。
1995年(平成7年)に発生した阪神淡路大震災では、建替えや改修工事を多く受注し、災害復興に尽力しました。
1990年(平成2年) | 「ロイヤルヒルズ箕面」完成 |
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1991年(平成3年) | 「ロイヤルヒルズ三田」受注 受注金額20億5,000万円(単一工事最高額) |
1995年(平成7年) | 阪神淡路大震災発生 被災建物の建替・改修工事に注力 |
1997年(平成9年) | 分譲マンション事業へ本格参入 |
2001年(平成13年) | 三木建装株式会社設立 |
2003年(平成15年) | ISO9001認証取得 |
2009年(平成21年) | 創業100周年を迎える |
2011年(平成23年) | 三木 哲彦 代表取締役会長就任 三木 康資 代表取締役社長就任 |
次の100年へ
受注量・利益確保や業務の見直しによる収益の改善を目標とする3カ年計画を達成し、2009年(平成21年)には創業100周年を迎えることになります。
そして2011年(平成23年)、三木 哲彦が代表取締役会長、三木 康資が代表取締役社長に就任。介護施設など新しい分野への挑戦や自社でプランニングを行う新規事業にも積極的に乗り出し、21世紀にふさわしい三木組へとその歩みを確かなものにしているのです。
1909年の創立以来、戦争や経済危機など幾多の困難を乗り越えて、地域に根ざした発展を続けてきた三木組。次の100年も「顧客第一主義」のもと、誠実にお客様の期待に応え続けるご提案をしていきます。